優秀作品(2)

熊本大学・遺伝子実験施設・荒木正健
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2002年 3月24日更新


『脳死は本当に人の死か』(法学部)


 脳死を死とすることに多少の抵抗はあっても、臓器移植という人道的な行為を行うためには脳死を死と認める必要があるなら、その考えもやむをえないかな、というのが無知な私の意見でした。筆者が述べるには、臓器を待つ側のみを特に映像に訴えかけることで意見を操作しているとのことです。改めて私は無知は恐ろしいと感じたのです。
 筆者は脳死は死ではないと言いきります。けれど私は最後にでてくるある事例を読むまでその言葉は単なる文面でしか受け取っていませんでした。実際に臓器提供に同意した家族のことがあげられていました。そこでようやく私は強い衝撃とともに脳死というものが心に響きました。まず脳死とはある日突然やってくるものであること。次に脳死状態ははた目からは眠っている人にしか見えないこと。死を覚悟することのない人間が急に脳死状態になる。けれど家族は目の前で眠っているように見える者が本当に脳死なのかはまったくわからない。身体は温かく、反応もかえってくる。臓器移植とはその身体から生気あふれる臓器をとりだし、提供者を殺してしまう行為。だからこそ脳死で死者としたいのです。寒気がしました。私の考えは変わってしまった。今では臓器移植ですら正しい本当に人道的な行為なのか疑ってしまう。なんというか、嫌悪感とでもいうのでしょうか、それがズシンと心にあるのです。人は言葉ではわかっているつもりでも残酷な行為を映像化するのは避けてしまいがちです。それ故わからなかったのです。臓器をとりだし入れ替えるという行為。それほどの行為をして臓器を移植して、そして拒絶反応とそれを抑えるための薬の投与によってもたらされる感染症の恐怖におびえ、本当に人の為になっているのか、単に一時的な解決策ではないのかと考えるのです。
 人の死はとても辛い。それが愛している者ならなおさらです。けれど私たちは脳死を脳の機能全ての永久停止ととらえているのに対して、臓器移植の脳死は脳の神経系のおそらく永久停止をさしています。その私たちにドナーカードを持つ選択権がある。本人はわからない状態にあるのだからまだいい、けれど愛する者にとっては死は急ではなくゆっくりとうけとりたいと願うはずです。脳死から心臓停止までの生者と別れをつげる期間が削りとられる。ゾッとします。そして移植をうける側はどうでしょうか。本当に移植をうけなくてはならない人ではなくやはり経済力の有無で決まっていくのではないでしょうか。移植には莫大な金が動く。そのなかで人の私利私欲が入らない方がおかしい。なぜなら、今の社会が貨幣社会であり、富と力を欲求させる資本主義社会だからです。医者が、製薬会社がそれに走らない方がおかしい。社会がその行為を認める構造なのに。提供する側も提供をうけう側もリスクが高いのに、命をはっているのに利益をうけるのは周りの者ばかり。そのことを考えずに安易に人道的な行為だからとドナーカードをもつのは意外に多い。親はどんな思いで子供の行為を見るのでしょう。ティッシュやハンカチを持つような気軽さ。格好がつくから。そんな理由はとりあえず人道的っていい響きに消される。耳ざわりのいい響きこそ、何かがかくされている証拠のように感じます。どれほどの辛さがあるか、痛みがあるか、それが公にされていないのはおかしい。ひどく嫌悪感をもつ、けれども人の為にしたい、そういう行為こそが人道的なのであって、決して何より先にでてくる言葉じゃない。例えば骨髄バンクです。ドナーは相当な痛みをしいられることは知られている。それでもドナーになる人は痛みを覚悟の上で現われる。果たして臓器ドナーにそれほどの強い意志があるのでしょうか。情報化社会といわれ、自由主義、平等主義といわれる日本はその実多くの情報操作を行っている。響きの良さにダマされたくはない、これが私の自由な意思です。


*****2001年度・優秀作品*****
冬休みの課題レポート・2001
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