優秀作品(5)

熊本大学・遺伝子実験施設・荒木正健
熊本市本荘2−2−1
Tel : (096) 373-6501, FAX : (096)373-6502
2002年 3月19日更新


『脳死は本当に人の死か』(理学部)


 結論から書くと、この著者の主張にはほとんど共感できなかった。言いたいことはわかるが、納得はできないと感じた。自分は脳死の定義すらまるで知らない素人だが、著者の主張に対しては多くの疑問点が生じてしまった。偏見かもしれないが、文章の端々に偏った思想が見え隠れしているような気もした。日本は古来から国外の様々な文化を輸入してきた。しかし宦官、纏足、同性愛、麻薬といった悪徳は受け入れなかった。これは日本人の道徳的判断が働いたのであり、現在の日本で脳死者からの臓器移植があまり活発に行われていないのも同じ理由からではないか。このあたり、どうも他国に対する敬意が欠けているように思えるし、まるで日本独自の悪習が存在しないと考えているようで、著者の目線に変なフィルターがかかっているのではないかと心配してしまう。
 脳死がなぜ死と言えないのか論じる部分についてもどこか納得いかないものを感じてしまった。著者は思惟することのない人間(脳死者)を死体とみなすことを否定する。これがどうしても自分は受け入れることができない。人間に与えられた最も尊いものは、思考することのできる頭脳ではないだろうか。何も考えることができず、人に何かを伝えることもできない。そんな生には何の価値もないと思っている。著者はそういった考えを批判するが、その根拠は、「何十万年信じてきた死の概念を臓器移植という目的のために変えるべきではないから」というものだった。ただ長い間そう考えられてきたということに、いったい何の意味があるのだろう。また、著者は人間の思い上がった思惟が自然を破壊することとなり人間自身を脅かすこととなったと語る。確かにそれは間違いではないが、自分たちの過ちを認めそれを正すことができる理性こそが人間のすばらしさであると考えられないのだろうか。
 どうしても分からないのが、著者は臓器移植をしないのならば脳死を死と考えるのだろうか、ということだ。著者はしばしば、臓器移植のために脳死者を死人扱いしようとする医師に対する憤りを見せる。実はこれ以外、著者が脳死を死と認めない明確な理由が読み取れない。少なくとも、何万年もそう考えてきたから、というあまり論理的でない理由くらいしか見当たらない。邪推かもしれないが、著者は単に一部の医師たちが富や名声を得るのが気にくわないだけではないだろうか。たとえ臓器移植に様々な問題があり、数十年後には廃れてしまう可能性があったとしても、今一人でも多くの人命を救えるのなら認める価値は充分にあるだろう。


*****2001年度・優秀作品*****
冬休みの課題レポート・2001
教育活動
 MASA Home Page


  遺伝子実験施設ホームページ
熊本大学・遺伝子実験施設; E-mail:www@gtc.gtca.kumamoto-u.ac.jp