「大学等におけるクローン研究について(中間報告)」の概要
I. 背景
1 クローン研究をめぐる最近の動向
- 平成9年(1997年)2月,英国ロスリン研究所の研究グループが成体の体細胞由来核移植によるクローン羊(ドリー)の作製に成功したとの報道があり,世界的に注目。
- その後も,哺乳類におけるクローン個体作製の新たな手法が相次いで報告され,大きな反響を喚起。
2 クローン研究の意義と新たな問題点
- クローン研究は,これまで主に畜産分野において発展。その成果は既に実用化されているのみならず,学術面,応用面においても大きな意義。
- 一方,ドリーの誕生に代表される哺乳類におけるクローン個体作製手法の進展は,ヒトへの応用を容易に想起させるものとして,新たな問題を提起。
3 各国等の検討状況
- 米国においては,ヒトのクローン研究に関する政府資金の配分を停止するとともに,更に体細胞由来核移植によるヒト・クローン個体の作製を,5年間の時限付きで禁止とするため、関係法案を議会に提出。
- 西欧諸国の多くでは,従来より,生殖医療・医学関連の国内法において,ヒト胚の取扱に関する規制を行っており,ヒト・クローン個体の作製についても既に禁止。
- 国際機関においても,8カ国デンバーサミットコミュニケ,ユネスコ「ヒトゲノムと人権に関する世界宣言」等がヒトのクローン個体の作製の禁止に関し言及。
4 我が国におけるこれまでの対応
- 我が国においては,学術審議会及び科学技術会議における検討に基づき,ヒトのクローン個体の作製を目的とした研究に対する政府資金の配分を当面差し控えるとともに,国以外の者に対しても,これら研究を当面差し控えるよう期待を表明。
- 科学技術会議においては,「ライフサイエンスに関する研究開発基本計画について」の答申において,クローン技術によるクローン個体の作製やヒト細胞の培養等については,適宜推進するとともに,ヒトのクローン個体の作製については,これを目的とした研究を実施しないこととすべきとの見解を公表。
5 検討課題
- ヒト・クローン個体の作製に関する問題については,未だ十分な議論が尽くされていない事項もあり,更に議論を尽くしていくべき。
- ヒトのクローン個体の作製に関する問題は,広範な価値観に関わる問題であり,人文・社会的な観点からの検討が求められるとともに,基礎研究として,また,医療行為としての側面からの専門的な検討が必要。我が国関係省庁は,科学技術会議,学術審議会及び厚生科学審議会において,それぞれの観点から検討を実施。
- 特に,基礎研究の分野では,研究の内容とその目的との関係が必ずしも明確でなく,ヒトのクローン個体の作製を目的とした研究の範囲についても,十分な合意は未だ不在。
- このため,大学等における実際の研究については,想定され得る様々なケースについて幅広い議論を行った上で,これを進めることが必要。
II. 倫理・社会面からの考察
1 ヒト・クローン個体の作製がもたらす社会的影響への懸念
- ヒトクローン個体の誕生は,個人,家族,社会の在り方に望まざる影響を与えるのではないかとの懸念を生むとともに,子供の遺伝情報を予め親が決定することについての法的面からの議論を喚起,優生学上の思想の悪用を招く恐れについても指摘されているところ。
- クローン研究の規制を考える上では,このような不安が存在するなど,社会的合意が形成されていないこと自体を重視する必要。
2 遺伝子の複製と人格の複製
- ヒトの人格は,必ずしも遺伝子型のみにより決定されるものではなく,人格の複製に関連したヒト・クローン個体への過度の社会的懸念に対しては,正確な情報の開示により対処する必要。
3 研究の自由と自主規制
- 大学等における研究は,研究の自由を原則としつつも,社会における文化的活動の一部であり,研究者自身による倫理的・社会的責任の自覚と厳しい自主規制の下に行うことが重要。
III. 科学面からの考察
1 用語の定義
核移植,核の初期化,幹細胞,クローン,生殖細胞,体細胞,胚,胚盤胞,分化転換
2 クローン関連手法の分類
- 組織・細胞クローンの培養(細胞学的クローン手法)
- クローン個体等の作製(発生学的クローン手法)
[1]卵の分割によるもの
[2]核移植によるもの
- 核の初期化前処理が不要な場合
- 核の初期化前処理を必要とする場合
* 移植に先立って核の遺伝子に予め一定の改変を加えることにより,臓器等の特定のクローン組織のみを作製することも可能と予測されているところ
3 クローン研究の現状
(1) 基礎生物学分野における研究
[1]細胞学的研究
- 核移植の際に必要となる細胞周期の調整に関する研究が,様々な課題の基礎研究にも貢献。
[2]発生生物学的研究
- 体細胞核の全能性に関する問題,分化・老化の機構の解明にクローン研究が貢献。
(2) 畜産分野における応用
- 牛,羊等において種々の新技術の導入に成功。我が国でも体細胞以外の細胞からの核移植によりこれまでに300頭を超えるクローン牛を生産。
(3) 医療分野における応用
- 海外企業等において,移植臓器用家畜や薬用家畜の効率的生産等を視野に入れた研究が進展。
(4) ポスト・ドリーの研究と更に検証されるべき事項
- 哺乳類の体細胞由来核移植によるクローン個体(ドリー)作製の手法については,追試による詳細な検討が必要。この手法により得られた個体及びその子孫の生理的特性についても,今後の報告に期待。
- 本手法のヒトへの応用の可否を考える上でも,これら検証によりもたらされる技術的安全性に関する知見は不可欠。
4 ヒト個体への応用の可能性と問題点
- 哺乳類におけるクローン個体作製手法のヒトへの応用は,あくまでも理論上の仮説の段階。仮に,倫理的に許容されたとしても,なお克服すべき種々の安全性の問題が存在。
- 胚の分割や核移植等の個別の関連技法については,クローン個体の作製以外の目的への応用の可能性とその問題点について検討が必要。
(1) 胚の分割の技法を用いて,1つだけ得られた胚から複数の胚を得,胚移植による妊娠の成功率の低さを補う応用例
(2) 受精卵から他の除核卵細胞への核移植の技法を用いて,母親がミトコンドリア異常を持つ場合の子供への疾患の遺伝を予防する応用例
- 現時点においては,実験動物レベルにおける研究の蓄積が待たれるところ。(3) 体細胞由来核移植の除核卵細胞への核移植の技法を用いつつ,発生させる核の遺伝子を操作することにより,個体ではなく臓器等の特定の組織のみを得る応用例
- 移植用臓器の作製手法としては,各臓器の幹細胞を用いた培養の手法の方がはるかに現実性が高く,本技法を用いる必要性は想定し難い。
IV. 大学等におけるクローン研究の今後の在り方
1 大学等におけるクローン研究の進め方
(1) ヒトのクローン個体の作製
[1]倫理・社会面からの問題点
- ヒト・クローン個体の作製については,現在,多くの人々が不安を抱いており,その実施は社会的にも容認されていない状況。
- 大学等の研究者にあっては,このような状況を踏まえ,ヒトのクローン個体の作製に関する研究については,当面,これを行わないこととする。
[2]安全面からの問題点
- 核移植によるクローン個体作製関連技法のヒトへの適用の可能性及びその安全性に関しては,ほとんど何の知見の蓄積もない状況。安全性の検討の範囲としては,個体の発生から成長,発達更には子孫への遺伝的影響までの評価が必要。
- 安全性の観点からも,ヒト・クローン個体の作製は行わないこととすべき。
- このため,ヒト・クローン個体作製の前提となる技法である,ヒト体細胞(受精卵,胚をも含む)由来核を除核卵細胞への核移植については,これを伴う研究を,当面,全面的に禁止することが適当。
- 研究用のヒト胚については,これを分割することにより潜在的にはクローン個体を作製し得る能力をも有することに留意し,厳正な管理に努める必要。
(参考)
ヒト胚の取扱に関する留意事項
(2) ヒト・クローン胚からの細胞・組織の発生及びヒト細胞・組織クローンの培養
- ヒトの組織・細胞クローンの作製手法のうち
[1] 潜在的にヒトの個体発生が可能な受精卵や胚(初期化前の核移植卵を含む)を人為的に特定の組織・細胞のみへと分化させる手法については,これを行わないこととすべき。
[2] 細胞・組織クローンの培養については,その核を初期化しない限り個体が産まれないと判断されるので,規制は不要。
(3) 動物のクローン個体及びクローン細胞・組織の作製
- 従来からの動物保護関連諸規定を遵守することのほか,新たな規制は不要。
2 大学等における研究の特色とこれを踏まえたヒト・クローン研究の規制の在り方
- ヒトのクローン個体の作製自体については,今後,それがもたらす個人的・社会的問題の如何によっては,法的規制をも視野に入れた検討が必要。
- 一方,ヒトのクローン個体の作製を目的とした研究に対する規制においては、関連する研究手法の多様さやその進展の急速さから,柔軟かつきめ細かな対応が可能な規制手段の要請。
- 特に,大学等における基礎研究は,用いられる研究技法からその応用目的を特定することが容易でなく,これを規制する場合には,周辺領域の研究を必要以上に自粛させたり,ヒト・クローン個体の作製を目的としない他の研究にまで無用な規制の波及を招いたりする恐れ。
- 以上を踏まえ,大学等におけるクローン研究においては,当面,柔軟かつきめ細かな対応が可能な指針による規制の形態を採ることが適当。
- 文部省が指針を策定する際には,学術審議会の議論を踏まえ,想定され得る様々なケースについて,きめ細かな検討を行うとともに,指針の策定後においても,法的規制の必要性をも視野に入れた検討の動向等を踏まえつつ,新たな社会的合意の形成や研究の進展に対応し,不断の見直しを行うことが必要。
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熊本大学・遺伝子実験施設, E-mail:www@gtc.gtca.kumamoto-u.ac.jp