癌とプロテオミクス
〜創薬への応用〜
佐藤 孝明
(株)島津製作所 ライフサイエンス研究所 プロテオーム解析センター 主任研究員
熊本大学 生命資源研究・支援センター バイオ情報分野 客員教授
癌は様々な刺激応答により、正常細胞に質的・量的な変化が起きた遺伝子の病気である。この概念は、1980年代の急速な分子生物学的アプローチによる癌の遺伝子解析により明らかになった。すなわち、大腸癌の発生・進展モデルに代表されるように、遺伝子(ゲノム)レベルでの異常はsomatic mutationやinherited genetic mutationの蓄積(多段階発癌)により癌の悪性化がおこり、ダイナミックなゲノム動態の変化とともに、遺伝子の発現(トランスクリプトーム)レベルでの異常をも引き起こす。これら、ゲノム、トランスクリプトームレベルでの遺伝子異常が癌細胞の発生・進展に関与していることは現在では疑念の余地がない。しかしながら、多くの分子生物学者が癌の発生機序や悪性化を最新の分子生物学的アプローチを駆使して研究を行なっているにも関わらず、網羅的解析にしても各論にしても創薬に結びつくようなブレイクスルー的な大発見には至っていないのが現状である。その理由の一つは、DNAを専門とする多くの分子生物学者が遺伝子の最終産物である蛋白質(プロテオーム)の解析を長年にわたって軽視してきたこと、蛋白質解析に関する方法論がDNA解析に比べて基本的にほとんど進歩していないことにあると考えられる。
我々は、10年以上に渡り、TNF(tumor necrosis factor)/NGF (nerve growth factor)受容体の情報伝達機構の解析を行いながら、癌細胞が細胞死(アポトーシス)を回避する機構を研究してきた。正常細胞は本来内的外的要因によって年齢とともに死滅するが、癌細胞はimmortalityを獲得し、抗癌剤や放射線による細胞死誘導シグナルを回避する機構を獲得している。これらの細胞死に関与する受容体の情報伝達機構は、in vitro、in vivoにおける蛋白質―蛋白質相互作用を用いた分子生物学的手法により、次々と芋づる式に結合蛋白質が単離同定されその機能や活性化機構が明らかにされてきた。しかしながら、これらの情報伝達を司る蛋白質は、一度も同じ生理学的条件下で蛋白質複合体(signal-inducing protein complex)として解析されたことはない。それぞれのシグナルのオンオフでどのような情報伝達蛋白質が受容体にリクルートされ、どの蛋白質がどの部位でリン酸化、脱リン酸化が起こり情報が伝わっているか、全ての関連蛋白質を同じ条件下で解析することは、既存の分子生物学的手法では限界がある。そこで、プロテオーム解析法が必要になってくるのである。
本講演では、現在、癌研究においてゲノム、トランスクリプトーム解析で蓄積された分子生物学的知見をいかにプロテオーム解析と結びつけて診断・創薬へ応用できるかを演者らの今までの経験から容易に概説したい。
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