優秀作品(7)

熊本大学
生命資源研究・支援センター
バイオ情報分野
荒木 正健

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2006年 5月17日更新


『イエスの遺伝子』(文学部)

(1)この本を選んだ理由を書いて下さい。
 文学部の学生である私にとっては、小説という形式をとった文章が最も理解しやすいのではないかと思ったからです。また、これまでSF小説にあまり馴染みがなかったので、新しいジャンルに触れてみる良い機会であると感じ本書を選びました。

(2)この本で著者が一番伝えたい事は何だと思いますか?
 質問の裏をとるような回答になってしまって申し訳ないのですが、この作品の著者は自分の意見が一方的に読者に伝わってしまうことを避けているように感じました。著者は『イエスの遺伝子』という“仮説”を立てたに過ぎず、すべての判断は私たち読者にゆだねられているような気がするのです(このことについては(3)で詳しく述べさせていただきます)。

(3)この本を読んで感じた事、考えた事を書いて下さい。
 トムやジャスミンらが繰り広げる白熱した科学的議論、秘密結社ブラザーフッドの陰謀、暗殺者マリアの残酷で、それでいて美しくさえある殺害模様。めまぐるしく視点および場面を転換しながら、『イエスの遺伝子』は怒濤の勢いで歯切れ良く語られていきます。一つ一つの断章の分量も極めて適当で、長篇作品を読む際にしばしば感じる“冗長さ”を一切感じない秀逸なエンターテインメント作品であると私は感じました(エンターテイメント作品という言葉に語弊があるかもしれませんが、ここでは“純文学とは異なる枠に属する小説作品”という広義的な意味合いでこの言葉を用いています)。断章毎に視点が変わる多角的・立体的な構造をとっており、いわゆる“ドキドキハラハラ”させる仕掛けがあちこちに効果的に散りばめられています(特に、ホリーが一度死んでしまうシーンは鮮烈の極みと言っても良いでしょう)。このように極めて“動的な”印象を受ける本作ですが、作品の底流にはある一つのテーマが、静謐に、必然と貫かれているように私には感じられます。
 ある一つのテーマとは何か。それはつまり、遺伝学とキリスト教の対比であると私は考えます。ジーニアス社とブラザーフッドの対比はもちろんのこと、遺伝学者トムとその父であり神学者のアレックス、無神論者で実際的なジャックのような人物たちと狂信的なキリスト教信者であるブラザーフッドのメンバー、ジーニアス社の社員であると同時にバプテストでもあるジャスミン、といった具合に、本作の中には様々な信念を持った人々が登場します。著者の優れた点は、これら全ての人物を均一に、つまり誰一人にも肩入れすることなく中立的な視点から描いていることでありましょう。確かに、トムを善なるもの、エゼキエルやマリアを悪なるものといった風に仕立て上げてしまったほうが作品のエンターテイメント性は高まるかも知れません。しかしながら、このような構図をとってしまうと作品が独りよがりになってしまい、ともすれば神の子としてのキリスト、あるいはキリスト教の存在そのものさえも否定してしまうことにもなりかねません。おそらく、その点について作者は細心の注意を払ったのだと私は推察します。作者の注意は、最終行の「だが、それにつつまれていた遺体については、なんの痕跡も見当たらなかった。」という文章にもっとも顕著に現われているように感じられます。
 物語の伏線だけを追えば、ナザレ遺伝子はキリストのような救世主に固有のものではなく、トムのような無神論者や場合によっては悪人でさえも持ちうるものであるため、マリアは単なる凶悪な暗殺者に過ぎない、ということになってしまいます。しかしこれではまるでキリストの再臨など単なる妄想に過ぎないと言っているようなものであり、読者によっては、「この著者はキリスト教を批判している。」と捉える者が出てくるかもしれません。そこで、著者は作品の最後に、「だが〜見当たらなかった」というマリアが再臨したキリストであったことを暗示する文章を書いたのではないでしょうか。蓋しくもこれは単なるご都合主義のように思われるかも知れませんが、私は決してそうは思いません。むしろ最後にマリアが再臨したキリストであることを仄めかす前述の文章を書いたことによって、作品に新たな解釈の視点が付与されたようにさえ感じます(おそらく作者はそこまで考慮していたはずです)。
 新たな解釈の視点とはつまり“愛”についての視点に他ならないでしょう。もしマリアが愛に恵まれた環境で育っていたら、そしてもしエゼキエルを妄信するようなことがなかったら、彼女は暗殺者になどならずに真の救世主になっていたのではないでしょうか。このように推量する際私たちが感じるのは、“マリアに対する同情”であると同時に、“愛の偉大さ”であるはずです。なぜなら、再臨したキリストであるはずの人物ですら、成長の過程に“愛”が欠落していると暗殺者にさえなってしまうのですから。マリアの愛の欠落はホリーに対するトムの愛情と明確なコントラストを成しており、それゆえに、娘の命を救って欲しいというトムの要求を断る際にマリアが口にする「いいえ、カーター博士、わたしはあんたの娘を助けたりしない。死んでもそんなことをする気はないよ」といういささか子供じみた発言や、エゼキエルに抱きしめられ、口づけをされたときの彼女の涙には、ある種の痛々しいまでの愛の渇望が潜んでいるのではないでしょうか。
 最後に、本書の中でもっとも印象に残った言葉を挙げさせていただきます。それはエゼキエルがトムに対して述べる「(前略)だれもがその遺伝子(*ナザレ遺伝子のこと)を持つ世界を想像してみるがいい。だれもがみなを治療できて、だれもが自然な病気で死ぬことがない世界を。どのような行動をとっても重大な結果になることのない世界を。世界の人口は膨大になり、地上に天国が生まれるどころか、この世の地獄が出現することになる。土地はない。食べ物もない。生命に対して、あるいは死に対して敬意が払われることもない(後略)」というものです。
 このエゼキエルの発言は、遺伝学に限らず、あらゆる科学、ひいてはあらゆる人間のテクノロジーに対しての警鐘ともとれるものでありましょう。しかしながら、私たちは科学に頼らざるを得ない側面を持っているというのも事実です。例えば自分の家族が死に瀕している際、一体どこの誰が彼(もしくは彼女)を見殺しにできましょうか。医学に頼ることで、少しでも長く生きてほしいと願うのは至極自然な考え方であるはずです(トムがホリーに対してそう思ったように)。
 ゆえに、私たちは自然の摂理と科学の狭間で常に揺れ動いていると言えましょう。(2)でも述べたように、『イエスの遺伝子』には、どちらの考え方をするべきだ、というような一方的なメッセージは込められていません。自然の摂理を重んじて生きていくか、科学を重んじて生きてゆくか、あるいはそれらを折衷させながら生きていくか、決断するのは私たち一人ひとりなのです。その点において、本書はそれぞれの考え方をとる人々が登場しそれぞれの考え方に従って行動していく様を描いた、極めて緻密な秀逸な“仮説”であると私は考えます。


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